「清々しき人々」旅行日記の秀作を発表した 井上通女(つうじょ)

 通女は四国讃岐の丸亀藩主の家臣である井上儀左衛門の四女として一六六〇(万治三)年に誕生しました。父親は藩内でも有数の朱子学者であり、母親も教養のある女性であったため、幼少の時代から高度な教育を享受し、八歳のときには『源氏物語』を暗唱できるほどでした。さらに一二歳になって漢籍も勉強し、自作の漢詩を江戸の当代随一の朱子学者林春斎に送付して指導されるような環境で勉強していました。

 そのような背景から通女の才能は丸亀藩京極家の江戸屋敷でも評判になり、二二歳になった一六八一(天和元)年に江戸に生活する丸亀藩主京極高豊の母堂の養性院の侍女として出仕することになりました。そこで一一月一六日に家族や友人に見送られて父親とともに江戸に旅立つことになります。丸亀から帆船で三日をかけて、たまたま荒海であった瀬戸内海を横断して大坂に到着し、ひとまず丸亀藩邸に滞在します。

 大坂では奉行所から東海道の途中にある新居関所と箱根関所の通行手形を入手します。これが面倒の原因になりますが、それは関所に到着してからのことです。大坂からは、まず淀川を川船で遡行して淀宿に到着します。淀川を遡行するのは両岸から人手で川船を牽引するので二日がかりの船旅でした。淀宿からは京街道を徒歩で移動して京都に到着、数日滞在しますが名所見物もせず、江戸を目指して東海道を進行します。

 冬季のため松明を使用して早朝から京都を出発し、二日をかけて桑名宿(三重県桑名市)に到着、ここからは小船で「七里の渡」といわれる海上航路を利用して夜中に宮宿(名古屋市熱田区)(図1)に到着します。睡眠もそこそこに夜明けとともに出発し、在原業平の故事で有名な八橋は面影もないとのことで通過、赤坂宿(愛知県豊川市)で一泊、翌朝も早朝に出発して午後二時に問題の新居関所(静岡県湖西市)に到着しました。

図1 七里の渡(宮)

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